The Gleaners
(落ち穂拾い1)

デコラと電蓄

2ウェイ、3ウェイスピーカではウーハやツィータそれぞれに適した信号を入れる必要があります。 これをマルチウェイスピーカシステムといいますがこの方式は古くから存在したようです。 おそくても1930年までにはあったようでイギリス時代のハートレーは一般家庭用として1931年には46センチウーハと25センチウーハによる2ウェイスピーカを発表していました。 ウエスタンに代表されるトーキーサウンド用途には無論それ以前から取り入れられていました。
マルチウェイスピーカは一台のアンプの信号をネットワークで分離するのですがそれにはコイル(L)とコンデンサー(C)を使うのです。 コイルは低音域では抵抗値が少なく高音域では増えるという性質があります。 コンデンサはその逆の性質をもちます。コイルとコンデンサーを用いたLCネットワークではその性質を利用して高音域と低音域をわけるのです。
Lを一つ、Cを一つ使ってスピーカーと組み合わせた場合を考えましょう。スピーカに直列にLを入れると高音になるに従ってLの抵抗値は増えていきます。 するとスピーカに加わる電圧は高音になればなるほど下がるので音量は低下します。Cを入れれば低音ではCの抵抗値は高いので音量は少なく、高音になればなるほど増大します。
LをウーハにつなぎCをツィータにつなぐとこれでマルチウェイスピーカとして動作するわけですが、LやCの素子が一つだと1オクターブで6dBの変化が生じるわけです。
1オクターブの変化量は6dB 、12dB 、18dBが普通ですが稀に24dB 型も存在します。例えばケリ-のリボンツィータは24dB型ですし一部のスーパーウーハなどにもあります。 不要な帯域を鋭く遮断するには変化量を大きくすればいいのですがそのためにはLやCの数を増やさないといけません。それは音質劣化に繋がることが多いのです。 でもそうしないと帯域外の音が悪影響を及ぼしたりスピーカそのものが破損する可能性が高いので、やむをえずそうしないといけない時もあります。 たとえばリボンツィータでは遮断カーブを緩やかにすると遮断周波数を高くしないかぎり直ちにリボンが破損するのです。

さてクロスオーバ周波数という言葉は御存知でしょう。 ウーハやツィータをクロスさせる周波数をそういうのですがそれぞれのレベルが3dB下がったところを一致させて、そこをクロスオーバポイントといいます。 そこから以降をオクターブ6dBで変化させるものを6db型、18dBで変化させるものを18dB型といいます。 前述のように英ワイアレスワールドをはじめ戦前の「無線と実験」などにも以上のことは出ていますし一部の超マニアの間やWE などではこれは常識でもあったようです。
日本でも一部のスーパマニアは1930年代から楽しんでいたようです。一般書の記述としては白州正子氏の青山二郎伝記書が目を引きます。 氏によると太平洋戦争前にすでに青山二郎は伊豆にあった別邸で低音高音に多数(おそらく10個程度)のスピーカを並べた大型システムを聴いていたようです。 白州正子が指摘しているように戦後書かれた小林秀雄のモオツァルトはこの壮大なマルチウエイの青山電蓄を聴いてその音に触発されたことが切っ掛けの一つになったことは間違いありません。 小林秀雄は戦前からのオーディオファンであり五味康祐や瀬川冬樹に多大な影響を与えたことは良く知られています。 小林秀雄全集にも収録されている評論「蓄音機」では五味の狂人ぶりを優しくからかっており、そのことを五味は大層光栄に思ったようです。 小林は五味のことをバスタオルと渾名し「この種の狂人は嫌いではない」と書いていて、戦中戦後のある時期骨董に狂った自分に五味を重ねて見ていたようです。 大先生に誉められたことがよほど五味は嬉しかったのでしょうかSS誌に書かれた文章には時折そのことに触れておられます。 その経緯を知らないと気付きにくく読んでも何のことか分からない書き方ではありますが。

瀬川冬樹は創刊まもない頃のSS誌で、ゴッホ美術館で手持ちの複製画の本物を見た時その本物は所蔵の複製画の複製に見えた、 という小林秀雄の有名な一文を引いてオーディオ論を展開していました。今日眺めても極めて優れたオーディオ論で、瀬川畢生の名論文だとおもいます。 蛇足ながら小林秀雄は評論「蓄音機」でオーディオ趣味が壊滅しつつある50数年後の今を、途中の隆盛の時期を含めてほぼ正確に予想していてその鋭い推論推察に全く脱帽せずは居られません。 瀬川冬樹も五味康祐も自分が滅んだ後にはいずれそうなると分かっていたとおもいます。
脇道にそれると思いますが瀬川冬樹氏の名論文は1960年頃のラジオ技術誌の「私のリスニングルーム」、しばらくあとの「M夫人のクレオさん」(クレデンザのこと、M夫人は福岡で御健在)、 1960年代半ばのラ技連載の一連の「これからのステレオ装置」などであり、個人的には1970年代の瀬川さんは抜け殻としか思えないのです。 それは瀬川さんも分かっていたようです。お亡くなりになる直前のことですが倉敷在住のIさんに、ぼくはもうだめなんだ、体もだめだしオーデイオも堕落してしまったんだ、 今一度昔に帰りたい、45とアキシオム80に戻りたい、そのために80は8本用意しているんだが、、、と述懐されたそうです。 瀬川さんのピークはJBLの蜂の巣ホーンをお使いになられたマルチアンプ時代の頃まででしょう。Iさんからその話を伺った時、なぜか太宰治を想いました。 氏が癌に侵されていることはそのころは既に衆知のことでした。しばらくしてお亡くなりになったのですが大村一郎としてはS字状結腸にできた腫瘍で亡くなったとしても 瀬川冬樹としてはそうではないと思ったものです。

五味康祐もそうかもしれません。五味のオーディオのピークは1950年代半ばの芸術新潮連載「五味康祐LP帳」のころです。 その時代に散々し尽したからこそ1963年に始まったあの「西方の音」(これは西方浄土からきてきるのでサイホウと読む)では達観の境地に達しているわけです。 オートグラフが最高と仰るのは散々道楽をして来たから言えることでオートグラフはいわば釣り道楽の「ふな釣り」に相当するのではありませんか。 「西方の音」P21にある京都「四明岳」での詩人Yさんの話は、「五味康祐LP帳」では自分のこととしてもっと生々しく赤裸々にお書きになられていました。 東大泉のリスニングルームの「浄」という書はむろん浄土からきているものですが、LP帳からの10年ほどの歳月がいかほどのものかが偲ばれます。 あのリスニングルームは五味にとって西方浄土の地であったのでしょう。連載が始まってしばらく経った頃あの不幸な交通事故があったのです。 その頃中学生だった私はなぜかそれを伝えるニュースを覚えています。たしか日曜日の昼のNHKニュースでした。 氏愛用のいすゞヒルマンミンクスのブレーキはとても効きにくいという後日談もなぜか記憶にあります。あの事故で連載は一時中断されました。 そして事故前と事故後は明らかに変わってきています。事故前はオーディオ的であり事故後は音楽的哲学的であるのです。 単行本「西方の音」は芸術新潮に数年に渡り連載されたものを要約してまとめたもので巻頭はあの「シュワンのカタログ」であります。 でも芸術新潮連載第一回目はテレフンケンS8のことでした。そのことでもお分かりのように単行本では再編集や要約はかなり為されています。 連載の初期はオーディオの側面が強く、単行本では文学的に昇華しているようです。 ですから1963年から65年までの芸術新潮を図書館などで御覧になられたらオーディオ的には新たな大きな発見があるのではと思います。LP帳は単行本化されていません。
「西方の音」で一番どこが五味さんらしいところか、別の言い方をすると、どこが「バスタオル」的かといえばここでしょう。 こういう五味のひたむきで純粋な打ち込み方を小林秀雄はするどく見抜き、評価していたのだと思います。P178

―白状すると、あの交通事故以来、私の経済状態でアンプに四十万円の出費は苦しい。売るものは蔵書しかない。文学を売るにひとしい。 それでも格段に音が良ければ買わざるを得ないのだ。そういう打ち込み方を、つまり、生き方を今日まで私はして来た人間だ。 文学に音楽が必要ないなら、そういう文学は私に必要なかったまでのことだ。―

お亡くなりになる数年前に某青年のことを、気になる点がないではないがと評されたことがあります。文学に音楽が必要ないなら、そういう文学は私に必要なかったまでのことだ。 ぼくはそういう生き方をしてきた。君にそういう覚悟はあるのか と言いたかったのでしょう。音楽を捨てて文学に走る人だと見たに違いありません。 某人の部屋の写真をみると文庫本が山のごとく写っていました。誤解してほしくはありませんが文庫本を否定するものではありません。 私も大抵は文庫本ですが、でもこれは人に見せるものではありません。取材時は隠すものです。文庫本を売ってもジーメンスは買えませんがジーメンスを売ると本物の本は買えます。 でもジーメンスを売ったお金で彼は優れた文学が書けたのでしょうか。日本文学、つきつめれば純文学というものは生半可なことでは書けないことを教えたかったのでしょう。

ほとんど最晩年になりますが、芸術新潮に太宰治のことを書いた文が一部の太宰ファンの間でおおきな問題になったことがあります。 同情と愛情を込めた文であることは明らかですが、神聖視するファンにとってはこれは許し難いことだったのかもしれません。わたくしは文士達の文学修行の厳しさをそこに見ました。 今でもそういう苦労をされている方は多いようです。もう20年近く前になりますがSS社でライターの仕事をしておられた方が見事に芥川賞を取られたことがあります。 HiVi編集人だったある人がことのほか喜ばれ、とても新潮社には及ばないが我が社も一流出版社のハシクレになったと言っていたことが印象に残りました。 芥川賞をとってそれで終わりとなる作家は多いのですがその人は社会現象を捉えた本が大ベストセラーになり流行語にもなって隆々と御活躍です。

さて小林秀雄は1950年代末にはパイオニアの無指向性スピーカと思われるものを使っていてその後はテレフンケンの電蓄(S8ではなくオーパス)を買い、 晩年にはタンノイ3LZをQUADとEMTで鳴らされていました。 小林がテレフンケン電蓄を買った時、文学仲間の大岡昇平が負けじと同じものを買い1963年頃の芸術新潮に「わがテレフンケン」というエッセイを書いていました。 蛇足ながら白州正子氏は女性ながらデッカステレオデコラをお持ちになられていました。入手にあたっては奔走したそうで、青山が付けた渾名の「韋駄天お正」にふさわしいものでしょう。 今それは湘南にお住まいのエンスージャストの手元にあります。女性ではチェンバリストK女史もお持ちだったそうです。 これはアメリカから運んできたそうで送料が高かったと聞き及びますがコラーロは60Hz仕様だったのでしょうか?。 60Hz用コラーロはわたくしも所蔵していますから多分そうだったと思いますが。 新潮社の重鎮S氏が数年前にお亡くなりになられたとき芸術新潮の追悼記事に伝説のそのデコラの全貌が出ていたので実機の様子や部屋の光景を御覧の方も多いでしょう。 プレーヤは相当以前にコラーロから別のものに代わっているのが残念です。この辺りの芸術新潮はまだ古書店でも入手が容易ですし大抵の図書館でも閲覧可能です。 五味の骨折りでS氏入手の後、新品のデコラは5台入ったようです。コラーロ装備のものは全100台製造ですが白州正子所蔵のものはコラーロ付きです。 でもこれがその五台の中の一台かどうかは知りません。ずいぶん古いSS誌別冊には五十嵐さんが「デコラに御辞儀をする」を書かれています。これがデコラをさらに有名にしたのでしょう。 でも記事中の写真の機械は五十嵐さん所有のものではありません。これは記事用にSS社が入手したものですがプレーヤは除外されています。 デッカは100台製造したあとにも少し作ったのでこれはその時期のものです。 でも100台外のものではプレーヤはコラーロ以外のものが多いようでガラード301やガラードオートチェンジャがついているようでした。 それでは純正デコラとはいい難いので外して撮影した、と聞き及びます。これは数年前までSS社の倉庫にあったそうですがいまは某人の手元にあると聞きます。

五十嵐所蔵品だったデッカステレオデコラ。新品として到来した最初の5台の中の1台

デッカステレオデコラの弱点はコラーロの耐久性とプリアンプ初段の真空管8D8にあります。8D8をEF-86や6267で代用することは大いに問題があります。 どうしてかといいますとヒータが6.3V/0.15Aの8D8をEF-86(6.3V/0.2A)で置き換えると出力管EL34のバイアス回路が適切に動かないからです。 デコラではヒータの直流点火回路はEL-34のバイアス回路と共用になっているのです。 そこでバイアス回路の都合にあわせるとこんどは EF-86のヒータ電圧が不足するので本来のデコラの音はしません。 8D8は英STC社(ブランド名ブライマ)だけが作った真空管でもはや市場では入手が極めて困難です。 五十嵐さんは英ベントレーエレクトリックに100本特注したことがあるそうですがノイズの点などで全数使えなかったそうでした。 でもそのベントレー社の8D8は、そのことを聞き付けた東京大学宇宙航空研究所が欣喜雀躍として全部持っていったそうでした。 プリアンプ初段部用途以外では使えたのです。基準を緩めればあるいは全数良品の部類に入っていたのかも知れません。 白州正子由来のステレオデコラは今はヒータ電源部を別にしているそうです。そうするとEF-86でもなんとか使用できます。 音色はどうしても異なるのですがいくら8D8でもノイズが出ると使うことは出来ませんからこればかりは仕方がありません。 カメラ研究家としても高名なオーナはラジオ技術誌でも活躍した方ですのでこの辺りの工夫はお手のものだったと思います。この先達もデコラ以前はオールホーンシステムでした。

それぞれ時期が異なる3つの8D8。ブライマのカタログから消えたのは1970年代初期。

左側は最後期だが右側の最初期と比べてもプリント文字以外はほとんど差はない。

でも同時期のムラードEF-86と比較すると内部構造は相当異なる。本来の用途はわからないが極めて低雑音なのが特徴。 音質はまったく無類。お勧めしないがQUAD22には挿して使うことが出来る。

五十嵐さんはSさんを中心とした五味さん、小林さん、西条卓夫さん、などの交流の生き証人であります。また大村一郎氏の上司でもありました。 つまり瀬川冬樹の育ての親です。1950年代初頭に横浜在住の英国人銀行家がデッカデコラを日本に持ち込んだ時それを取材してラジオ技術誌で紹介しておられました。 これは新潮社のS氏と盛んに交流していた時期でもあります。知られていないことですが、氏によれば五味さんはS家の住込み書生だった時期があったそうです。 そういえばSS誌などにも、輸入LPをいち早く聴ける環境にいたことは幸せだった、との記述があったと思います。 五十嵐君、LPがきたから一緒に聴かないかと誘われて家に行くと、うやうやしく五味さんが斉藤さんを出迎えたそうでした。 ずうっと後になっても、Sさんのことに話が及ぶと、斉藤家は、というのが五味さんの口癖だったそうです。 モノラルデコラを日本人として初めて聞いた人の一人が五十嵐さんですがその話はリアルタイムにSさんや五味さんの耳に入ったことは想像に難くありません。 五十嵐さんはデコラを入手するまでマルチアンプ駆動のオールホーンスピーカでした。 NHKの「美の壺」というテレビ番組で紹介されていましたからHMVロイヤルという機械式蓄音機を御存知の方も居られるでしょう。 クレデンザなどは下々のものでいわば大衆機、HMV202や203こそがSP再生の極致であるとは某エンスージャストの言ですがロイヤルは203や202とは全く比較にならない名器だそうです。 英王室に一台、EMIに一台の世界にたった二つの品です。そのどちらかが20年以上前に銀座某社経由で日本にもたらされ、五十嵐所蔵品になりました。 いまどなたが御所有かは知りません。五十嵐さんはさまざまなペンネームを駆使されておられます。またそれすらもペンネームでもありますがS氏同様に表には全然出てこられません。 御健在の間にさまざまなお話を語られたら、と切に願います。蛇足ながら日本オーディオ協会の初代会長はフランス文学者の中島健蔵です。 中島健蔵は東大仏文で小林秀雄と同期(あるいは前後していたかもしれない)で音楽仲間、オーディオ仲間であったようです。 JASの設立時のくわしい経緯を御存知なのはいまでは五十嵐さんくらいではないでしょうか。

さて高城重躬、藤田不二共著(オーディオは高城、LPは藤田)の「LP辞典」1953年)などをみると昭和28年にはアンプやスピーカなど ほとんど今日と同じオーディオ環境が出来ていたことが見て取れます。特にスピーカはウエスタンやタンノイ、アルテック、JBL、ワ-フデール、グッドマン等、今日と何一つ変りません。
部品定価表は壮観です。ウエスタンに例を取ると下記の様になっています。

728B--12インチ--30W--4Ω--60~10000--35.7ドル
756B--10インチ--20W--4Ω--60~10000--38.55ドル
755A-- 8インチ-- 8W--4Ω--70~13000--24.6ドル
713C--トゥイータドライバー---25W--4Ω--800~15000--97.2ドル
KS-12027--ホーン--67.62ドル
702A--ネットワーク--97.46ドル
757A--スピーカシステム--275.09ドル
JBLでは
D130--15インチ--25W--16Ω--50~12000--70.4ドル
途中機種は省略
175DLH--トゥイータ--25W--16Ω--1200~--114ドル
N1200--ネットワーク--16Ω--33ドル

になっていてこれがすべてのメーカに渡って詳述されています。WEがJBLと比較して意外に安価なのが驚きです。

さて戦後マルチアンプという方式が登場してきました。 LやCを使ってパワーアンプの出力信号を分離するのではなくパワーアンプに入る前に分けてしまう方法です。 むろん戦前から知られていたやり方なのですが広く一般化されるのは第二次世界大戦の終結を待たねばならなかったのです。 これは主としてアメリカで発達してきました。米マランツは1950年代にマルチチャンネルデバイダ-モデル3を発売していますし日本でも1960年代始めには「NF回路設計ブロック」社が製品化しました。 これはGTソケットを利用したプラグイン型で周波数の変更はユニットの差し換え交換で行うものです。 高名なオーディオ研究家、加藤秀夫氏などは1950年台半ばには自作オールホーンスピーカシステムをマルチアンプで駆動されていて来日したマッキントッシュ社のマッキントッシュ氏が驚嘆したことは 有名な話であります。
ホーンスピーカをマルチアンプで駆動することはまことに理にかなったことです。 ホーンスピーカはホーンで適切な負荷が掛かった帯域以外はできるだけ急峻に遮断することが大事ですから正確な遮断特性が得られにくいLCネットワークは問題を生じやすいのです。
1960年代半ばにはこの方式は絶頂期を迎えました。各社からチャンネルデバイダーアンプが発売され普通のステレオ電蓄にも搭載されたことがあります。 それに伴い理論的にもいろいろ研究が進みました。なかでも山根/山中(当時、東京工大機械工学科の学生だった山中文吉氏のこと)論争は有名です。 伝達関数1という命題を巡っての論争でした。デバイダで分けられた信号をスピーカで再生し、もとの波形に戻るかどうかという論争です。 むろんLCネットワークでもこの問題は発生するのですが、もともといい加減で杜撰なカーブのLC型では論争の対象にすらならない論題でした。 伝達関数は一素子の6dB型では1になりますがそれ以外ではなかなか難しいことで、特にホーン型スピーカでは諸問題を円満に満たすことが困難で、結局そのことは決着をみなかったのです。

さてマルチチャンネルアンプの究極の形はトリオサプリーム1アンプに見ることができます。 プリアンプとデバイダアンプ、それに3組のパワーアンプを組み込んだ3チャンネルマルチアンプでした。音はともかくとしても形は秀逸で瀬川冬樹デザインの最高傑作だと考えます。 私はトリオの営業所でボザークスピーカと組み合わせた音しかしりません。厚手のビロードカーテンで吸音された環境で能率が低いボザークですから幾らマルチアンプとはいえ出力不足でした。 低中高それぞれ30W20W10Wですから仕方がありません。これと相性が良いと思われるJBLはサンスイが輸入していました。 これは1967年発売ですが理念としてはこの時点でほとんどいきなり終着点が示されていたわけです。 思想的にこれがなぜ到達点なのかは別項の一体型マルチチャンネルアンプの試作の稿でお話したいと思います。
当時はトリオに限らずソニーにはプリメンアンプTA-1120を中心として大規模なマルチシステムがありましたし、山水電気にも管球機CA303、BA303、BA202を組み合わせた 大掛かりなシステムがあったほどです。でも問題は各社ともチャネルフィルタにありました。
チャンネルデバイダは大きく二つに分類されます。パッシブ型とアクティブ型です。
増幅部を持たないパッシブ型にはCR型とLC型があります。CR型は抵抗とコンデンサーだけで構成するもので遮断カーブはふつう6dBで、12dBが限度です。 インダクタを用いたLC型では12dBになります。それを使うためにはプリアンプはできる限り低インピーダンスで低負荷に耐える強力なものが必要です。 またパワーアンプはできれば500KΩ以上の入力インピーダンスが必要でしょう。つまり半導体プリアンプと真空管パワーアンプの組み合わせが適するのです。
遮断カーブを急峻にするとスピーカのためには良い場合が多く、また不要な音がかぶりにくいので好まれるのですが遮断点付近で鋭いピークが出やすいので一筋縄ではいきません。 ピーク発生は負帰還型などのアクティブ形式だけの現象と思われがちですがそうではありません。LC型でも発生するのです。
増幅素子を使ったアクティブ形はCR型と負帰還を利用したNF型にわかれますがそれぞれに増幅素子に真空管と半導体を使ったものがあります。

1. CR型
真空管回路CR型は出力インピーダンスが低く入力インピーダンスが高いカソードフォロア回路などでCR回路を駆動するのですがこれを2つ重ねれば12dBカーブが得られます。 どうようにこれを半導体に置き換えれば半導体形CR型デバイダになります。

2. NF型
真空管カソードホロア回路の信号ループ内に2素子で構成されたCRを入れると12dBカーブで急峻な遮断特性が得られます。 またこれにパッシブ回路でCR素子を追加すると18dBカーブが実現できるので真空管を使用したチャンネルフィルターは主にこの形式を持つものが多く、 古くはラックスやオーディオリサーチなどから発売されていました。

またトランジスタ回路ではエミッタフォロア回路内にCRを挿入し同様に12dBカーブや18dBカーブを持たせていました。
こういう構成をNF型というのですが遮断点近辺でピークが出やすくまた12dBカーブでの最大減衰量は素子自体の利得で決まるので真空管回路では問題が出やすいものでした。

さてアキュフェーズ社は連綿とマルチアンプ思想を受け継いでいてPA機器メーカ以外ではほとんど唯一といってよいものです。 近年に至ってすべてデジタル処理したフィルターアンプを発売しています。デジタルフィルタこそマルチチャンネルアンプの理想でしょう。 いかなるデジタル嫌いの人間でもデバイダーアンプに限っていえばデジタルを拒絶することは出来ません。
そのことはデバイダアンプを作ってその実体を見れば理解できることなのです。 アナログ回路にとってフィルター回路は困難を極めた鬼門であり遮断特性は無論のこと低雑音低歪み高音質というオーディオアンプに求められる性能を満足させることが大変難しいのです。 特にシンプルイズベストという命題は絶対に実現不可能でありマルチチャンネルシステムの進歩発達が1970年あたりで止まったことが納得できます。 世のオーディオシステムの主流からゴトーユニットやYLが外れ、マルチシステムに適したJBLユニット群もやがて廃れていきました。 今のオーディオ文化は自力でシステムを作り上げる、あるいはどこかに依頼して自分の理想のシステムを作り上げることをすっかり忘れているようで、かろうじてWE趣味にその残照があるのみです。
高城氏のオールホーンシステムはデジタルチャンネルフィルタで、やっとその本来の性能が発揮できるでしょう。 またYLの、超大型ドライバを用いた8m、10mホーンは時間遅延が自由に設定できるデジタルフィルタでないとその片鱗すら垣間見ることは不可能です。 それらの性能が十分に発揮できる今日それに適したユニットがないとはまことに皮肉なことで先人達の不幸に思いを馳せずに居られません。 たとえば五味康祐に例を取るとまだモノラルだった1950年代末頃の芸術新潮にこんな話がでています。 高城さんの指導でコンクリートホーンを作ったが低音が全然でない、部屋の片隅のホーンの近くに行くと盛大な低音が聞こえるが普段聴く位置では出ない、こんな阿呆な話があるか、と。 また私が30年以上前にはじめて小倉の菅野邸で音を聞かせていただいた時、10mホーンから低音がまったく出ていないのです。 菅野さんのお話では低音ホーンだけ鳴らすと凄い音がするが555や597を鳴らすと消えてしまうとのことでした。 次にお伺いした時4181ウーハにされていましたが、イスの近くに置かれた4181は素晴らしく朗々とした音を響かせていたものです。 低音は近くで鳴らした方が良いとも仰っていました。 普通どの装置でも低音は少し早めに鳴らした方が良く、とりわけ長い低音ホーンを使った装置では中高音を低音ホーンの長さ分遅らせることが大事なのです。 10mホーンでは1/34秒ほど遅らせないといけません。これは伝達関数以前の問題であります。このことを実現するにはデジタルチャンネルデバイダの出現を待つ以外に方法はありませんでした。
デジタル方式の利点は時間遅延の自由度のほかにカミソリで切るがごとき急峻な遮断特性が得られることに尽きます。 伝達関数のことは実際の音響空間ではほとんど意味をなさないことかもしれません。
50年のあいだにオーデイオ文化が変化変質していくことは仕方がないでしょう。小林秀雄の指摘通り極限まで便利になり意識せずとも良い音が手に入る時代になると失うものが多いのでしょう。 大事な視点を見落としていてもそれなりの音はでるものです。そういう思いに至ったのは最近ハートレーユニットをマルチアンプで鳴らすようになったためです。 これは今までなにをやっていたのかと思う素晴らしさで1970年代中頃にマークレビンソンがHQDシステム(ハートレー、クワード、デッカ)を完成させ、 これを自社のフラグシップシステムとしていたことが痛切に理解できました。それと併用するLNC-2チャンネルデバイダもたいそう魅力がありました。 いかにも理想主義者マークレビンソンです。でも特性はそれなりのものでしょう。

さて今どきのオーディオマニアの楽しみ方の一つにケーブル交換があります。 確かに本質的な改善も期待できますが単に音のバランスを変えるために大枚を注ぎ込んでされる方も多くて、なんと無駄なことかと思うことが多いものです。 アンプ交換もそうでしょう。低音不足や高域の過剰感を修正するためだけにアンプを変えるかたも多いのです。 本質的な改善ではなく単に音のバランスを変えるためにアンプを交換することくらい馬鹿げたことはありません。 マルチアンプシステムはセンスがよいオーディオフアンが取り組むもので、アンプ交換100万円、ケーブル交換10万円くらいの変化はボリウム一つで簡単に出来るのです。 反面で音楽や理論が良く分からない初心者が不用意に取り組むと無残なことになるでしょう。 ここ30年ほどはマルチアンプシステムは下火でありますが、それはネコも杓子もマルチアンプに走った過去の反動でしょうか。 グラフィックイコライザの活用も最近一部で見直されていますが本当に良いものは皆無だと言うことを肝に銘ずるべきです。 グラフィックイコライザの使用はパワーアンプにとって大きな負担になることもあるので乱用はいけません。 でも個人的には、音質にダメージを与えることは明らかですがチェロ社のパレットには別の意味で魅力があります。
デジタルデバイダを使うことが前提ですが、オーディオ趣味に法外な出費が掛かるいまこそオーディオ趣味の本質を取り戻すために再びマルチチャンネルアンプシステムに取り組むことをお勧めするのです。 小林秀雄いうところの「歴史を取り戻す」取り組みの一つであることは間違いありません。

2009年9月記




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